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天保5年12月12日(1835年1月10日)- 明治34年(1901年)2月3日)。武士(中津藩士)、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。また、専修学校(後の専修大学)の創設にも尽力した。明治の六大教育家のひとり。初め読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読みあさった。安政元年(1854年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないかと兄から誘われたのがきっかけであった。万延元年(1860年)、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行木村摂津守の従者として、アメリカ合衆国へ渡る。なお咸臨丸の指揮官は勝海舟であった。後に福澤は、蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって太平洋を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べている。
(詳細 出典:Wikipedia)
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