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深田久弥(ユーチューブ動画)
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 1903年(明治36年)3月11日 - 1971年(昭和46年)。石川県大聖寺町(現在の加賀市)生まれの作家。旧制福井中学(現・福井県立藤島高等学校)から第一高等学校に進み、文芸部で堀辰雄や高見順と知り合う。また山岳部員として山にも親しんだ。東京帝国大学文学部哲学科に在籍しつつ、1927年(昭和2年)、当時円本ブームに沸いていた改造社に入社。懸賞小説の下読みをする過程で北畠八穂と知り合い、恋に落ちる。やがて北畠と同棲を始めるとともに『オロッコの娘』などの小説を発表。これらの作品が好評だったことに勇気を得て、1930年(昭和5年)に大学と勤めを辞めて文筆一本の生活に入った。1932年(昭和7年)に発表した『あすならう』で文壇的評価を確立したが、実は『あすならう』も『オロッコの娘』もその他の作品も、北畠の作品の焼き直しであった。このことに気付いた小林秀雄や川端康成から厳しくたしなめられたため、時には深田自身が独自に作品を書くこともあったが、全くの駄作に終わった。1940年(昭和15年)3月に北畠と入籍したが、翌1941年(同16年)5月に初恋の女性・木庭志げ子(中村光夫の姉)と再会して道ならぬ恋に落ちた。脊椎カリエスで寝たきりの北畠を差し置いて志げ子と逢引を繰り返し、1942年(昭和17年)8月には志げ子が深田の子を出産。やがて北畠が夫の浮気を知ったため大騒ぎになったが、深田が召集されて中国大陸に出征したことで、夫婦間の紛争は一時棚上げとなった。1946年(昭和21年)に復員してからは再び北畠のもとに帰らず、志げ子と再婚。激怒した北畠に焼き直しの件を暴露されたため、作家としての深田の信用は暴落し、10年以上にわたる雌伏生活を余儀なくされた。その後、登山仲間の小林秀雄から一喝されたのをきっかけとして山の文章中心の執筆活動を行う。特に1959年(昭和34年)から1963年(同38年)にかけて発表した『日本百名山』は高く評価され、読売文学賞を受賞。1971年(昭和46年)3月に、登山中の茅ヶ岳(1,704m)にて脳卒中で急逝、遺作に『中央アジア探検史』(白水社)がある。
(詳細 出典:Wikipedia)
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